#11中尾英己建築設計事務所

東京メトロ 九段下駅に着いたのは、すでに夕方でした。
階段を上ると、陽が沈んだばかりの青い空と灰色の雲を背景に、ビルの建ち並んだ太い道路と、その上を直行するように走る首都高が目に入ってきました。
右手は神田方面、左手は飯田橋方面。
そして近くには皇居のお濠。
まさに、東京の中心です。

首都高をくぐって、すぐのところに今回訪れる中尾英己建築設計事務所はあります。

事務所の入る九段下SSTビル。
設計はもちろん、中尾英己建築設計事務所。

エントランスホールを抜け、エレベーターに乗って5Fで下りると、打ち放しのコンクリートで仕上げられた壁と、黒いリノリウムの廊下の共用部に出ました。
窓から見える空はすでに夜に変わろうとしていて、薄暗さが、いっそうコンクリートの無表情な印象を際立たせています。
と、そこへ、開け放たれたドアから、蛍光灯の白い光と人の気配が。
中をのぞくと、ステンレスのシェルフに、積み上げられた書籍や雑誌、図面や模型が。
これは・・・大学の研究室のよう、と言ったらよいでしょうか。

中尾
どうぞ、今日はこちらのテーブルでお話しましょう。

きょろきょろと中を見回していると、中尾さんがそう声を掛けてくれました。
部屋に入って正面の、黒い鏡面仕上げの打合せテーブルで、まずは事務所を立ち上げたきっかけを聞いてみます。

中尾
僕は、高校の頃から建築家になりたいと思っていたので、最初から会社をつくろうという考えはありました。父が大学で建築の構造を教えていたので、小さいころから研究室に出入りさせてもらっていたことや、建築を見る機会が多かったことも、建築の道を選んだことに影響しているかも知れません。
中尾さん

―この場所に会社をつくられた理由というのはありますか?

中尾
実は最初、この隣りにあった「九段下ビル」に会社を開いたんです。築80年くらいの、かつての同潤会アパートメントや聖橋に並ぶ、とても雰囲気のある建物だったんですよ。今は取り壊されて空き地になっていますが。中学生のとき学校がこの近くだったので、子供ながらに良い建物だなぁと思っていました。

―古くから残っている建物って、新しい建物にはない大らかさのようなものがありますよね。

中尾
そのもの特有の佇まいがあるんでしょうね。自己主張しないのに、よく見るとすごいなあって思わせられる。僕もそういう建物をつくりたいと常々思いながら、建築設計をしています。
九段下ビル

―都心に家を建てることを考えたとき、いろいろな制約が出てきますよね。
敷地が狭小だったり、隣家と密接して建てなければなかったり。
そうすると、出来上がる家のかたちも、いわゆる「庭付き一戸建て」というTVCMなどで流れているようなマイホームのイメージとは、実際のところ違うんじゃないかと思うのですが。

中尾
そうですね、当然違ってきます。
言うとおり、都市は密集して建物が建っているので、快適に過ごすためには周囲の環境を考慮して設計する必要がありますし、当然その逆もそうで、周囲に配慮した設計をすることも必要になってきます。

―家にも「社会性」が求められるわけですね。

中尾
たとえば、南側に6階建てのマンションが建っている、なんていう敷地を想像してみてください。

―日当たりが気になる(苦笑)。
少なくとも、ふつうの家のつくりでは、絶望的ですね・・・

中尾
そう思うでしょう。
でも、そこを解くのが僕ら設計事務所の仕事です。
東京に住むことを選ぶ方たちというのは、理由はさまざまでしょうが、都市に住むことにほかには変えられない魅力や価値を感じているからこそ、そういう選択をされているのだと思います。
どんな街に住みたいのか、それも理想の暮らしのとても大切な条件です。
そういった家づくりを検討されている方々の夢を実現するために、設計を通してお手伝いできればと思います。

理想の暮らしって、なんなのでしょう。
戸建で庭があること、都心のマンション?
通勤のしやすい場所、それとも好きな街? 友人や家族との距離感や、気持ちの良い素材、空間は・・・?
わたしたちは思ったよりずっと、最初から目に見えない線引きの中で選択を迫られているのかも知れません。

―お客様との家づくりのなかで、大切にしていることはありますか。

中尾
僕は基本設計や実施設計が終わったタイミングで、建て主さんとご飯を食べに行ったり、お酒を飲みに行くことが多いのですが、そういうときに打合せには出てこなかったような、お客さんのこぼれ話が聞けるんです。
中尾
実はそういう話をしている時こそ、お客さんの価値観に触れることができる最高の機会だと思っています。お酒や食事というのは、コミュニケーション・ツールですね(笑)。

―ああ、たしかに家や建築以外にもいろいろなことを話して、結果的に感覚を共有できるようになるというのはあるんでしょうね。

中尾
最初っておそらく、お客さんと僕の間の共通言語って、せいぜい良くて50%くらいだと思っているんです。

―たしかに、お客さんは中尾さんのHPを見て良いと思っていても、その時点では中尾さんはお客さんのことを全然知らない状態ですよね。
だから、どんなにピッタリだと思っていても、相性は50%からのスタートになる。

中尾
僕は自分の役目は、建て主さんの理想の暮らしのイメージを、現実的に建物の空間に展開していくことだと考えています。
ですから、建て主さんがどんなことを良いと感じ、美しいと感じるかを理解し、共有する必要があるんですね。
お客さんとある程度いろいろなことをフラットに話していくうちに、最初は50%だった共通言語が、60%、70%、80%になっていって、結果的にかなり満足のいく家づくりができるようになるんだと思います。

どうやら、理想の暮らしを実現する鍵は、デザインのテイストに好感が持てて、かついろいろなことを話すことのできる相談相手と、「対話」を重ねることにあるようですね。

どんなライフスタイルが心地よいと感じるかは、人によってさまざま、ほんとうに千差万別です。
たとえばバスタオルの使い方一つとっても一人につき一枚使う家、家族で一日に一枚を使う家、バスタオルは使わないという家(!)。
いろんな家とそこに住む人々がいます。
つまり家には正解がなく、住む人の数だけ、答えがあるのです。

対話を重ねることで、おのずと自分の「心地よさの輪郭」が見えてくるはずですよ。